Tamawake Akimitsu Artist Talk



Title:He lives (片足がない)photo : Hiraku Ikeda


Left:Atsuhiko Shima  right:Akimitsu Tamawake
photo : Nik van der GIesen


He lives (きのこ) photo : Hiraku Ikeda



photo : Nik van der GIesen


photo : Nik van der GIesen
























He lives (両足装具)photo : Hiraku Ikeda






Magic (しか)photo : Hiraku Ikeda



Magic(きのこ)photo : Hiraku Ikeda



He lives(こどもと蓮)photo : Hiraku Ikeda


He lives (4人家族)photo : Hiraku Ikeda


Remember me (母)photo : Hiraku Ikeda






























 
   玉分昭光氏           島敦彦氏
photo : Nik van der GIesen
中森  本日は新型コロナウイルスの騒ぎのため、展覧会を延期にさせていただいて、アーティストトークはごく少人数の方々だけで行いたいと思います。 アーティストの玉分昭光さんと、金沢21世紀美術館の館長の島敦彦さんです。宜しくお願いいたします。   

   本日は宜しくお願いします。玉分さんのことをそれほど良く存じ上げないのですが、今回は中森さんから一度話し相手になってくれないかということでお引き受けさせていただきました。作品のことについてはよく知っていらっしゃる方もいらっしゃると思いますが、まずは玉分さんの今に至るまでのことをお伺いしたいと思います。

 玉分さんは1975年、岐阜県の多治見のお生まれということなんですが、幼いころはどんなお子さんでしたか。

玉分 よく言われたのはおとなしい子どもだと。自分ではそうは思っていないのですが。

島 何かに夢中になっていたとかはありますか?

玉分  虫に夢中になっていました。川の魚と会話をするというのはずっとやっていました。


島 昆虫や動物が好きなのは小さな男の子らしいですね。岐阜のほうにはいつまでいらっしゃったのでしょうか。

玉分 高校までいました。大学が富山だったのでそれで富山に来ました。

島:高校の時は将来のこととかいろいろ考えると思うのですが、美術学部とかではないのですか。

玉分 まったく美術は関係なかったです。高校生までは書道をやっていて書家になりたいという夢はあったのですが、教科としては数学が得意で、国語が苦手でした。大学は教員系の数学科に入りました。

島 それは富山大学ですか。

玉分 そうです。教員採用試験に落ちた時に自分の好きな事をやりたい、と。芸術系には興味があり大学院で美術を勉強するという決意をしてそこから始まりました。教育科なので、数学もあれば、美術もあれば一通りありました。大学の時に二種免許で美術の免許を取り、美術の先生になることもできました。本当は数学の先生になりたくて入ったのですが、あの当時教員採用試験は狭き門で、数学だったら100人に一人しかとらない時代でした。美術だったら100人に2人とってくれるので。笑。

 大学院で当時制作されていたものというのはどんなものでしたか。

玉分 当時ついた先生がフレスコ画先生だったのでフレスコとか漆喰をベースにした油絵を勉強しました。

島 そうでしたか。フレスコの経験は今の作品にも何か通じている気がします。

玉分 今回の作品は壁を意識しており、コーヒーで壁のイメージが付くようしているのですが。

 卒業されてからどういう風に生活してきたのですか。

玉分 大学院の時にタイからの留学生が来て、その方がタイの美術大学の助教授で仲良くさせてもらいました。二回目の教員採用試験にまた落ちた時に、彼が「仕事がないんだったら、タイの美術大学で教えてくれないか」と言ってくださって。

島 タイに勉強に行くのではなくて、教えに行ったのですね。

玉分 はい、美術大学で教えることになりました。するとその大学にはプレス機がたくさん置いてあり、そこから版画をやらせてもらうということが始まりました。

島 今まで多少は触れることはあったけれども、本格的に版画をされたのは、タイに行かれてからだったのですね。タイにはどれくらいいらっしゃったのですか。 

玉分 その時は半年です。その後2004年に一年。トータル一年半ですね。

 タイで制作されていたものは今回はあるのでしょうか。

玉分 はい、二階にある大きな作品がそうです。お世話になった大学をアトリエとして使わせてもらっていて、毎年二回タイで作っています。

島 タイに行かれたことによって何か発見とか、日本ではこれまで感じなかった価値観の違いなどを感じましたか?

玉分 タイの美術大学の環境が、先生たちも学生も国際展で賞をとっていて、レベルが高いところだったので、ハングリー精神というか、もっと頑張らなければいけないというような刺激は受けてきました。

島 生活面はどうでしたか?僕は二回くらいしかタイにいったことはないのですが、タイの人たちは親切なんだけれども、どこか近づいてくるとあるとき急に壁が出来てくるというか最終的には親密になれないというか、そう感じたことがあるのですが。

玉分 そうですね。同世代では仲良くなるのですが社交の場ではアルカイックスマイルというか、笑いでその場を過ごしていくということはありました。あまり深くかかわることはしなかったです。タイでは文化的にお酒を飲むことはあまりよいことではないので、そういった社交の場というのは当時からあまり好まれないというか、一部の人たちだけが好んでやる、そんな気がしました。

   タイでプレス機を使って銅版を制作され始めて、その後日本でも棟方志功記念版画大賞展などに出品されたりして、作品の変遷があると思うのですが、病気をされたのでしたね。扁桃腺の手術をされたのはいつ頃でしょうか。

玉分 2016年です。

島 わりと最近なのですね。病気以前の作品というのはどのようなものになりますか?

玉分 それはいまからプロジェクターでお見せしたいと思います。

中森 では作品を少しずつ見ながらお話していただきますね。(プロジェクター準備)

島 ところで銅版をされていると、腐食のときにガスがでるとか。普通に絵を描くのとは違う工程がありますし、例えば絵とは違って版画は反転しますよね。そのことに違和感はなかったのでしょうか。

玉分 最初は違和感があったのですが、今は反転する面白さがわかってきたのです。スケッチのまま銅版に絵を写すということをやって、わざと反転させています。

 なるほど、むしろ反転そのものを楽しむというか。

玉分 はい、あとでお話いたしますが、実はそこに、神がかり的な物語が出てくることになるのです。笑






ブラジル、そしてタイへ


玉分 今回の作品展のタイトルは《lives》です。今日は自分の作品と、それがどのように変化したのか、どうしてその作品を作ることになったのか、自分なりに整理しながらお話したいと思います。
 この写真はこれからお話するうえでとても重要な写真です。左にいらっしゃる方はタイ王室のアジタヤットホーンキチクン王女様です。今のワチラーロンコーン王の姪にあたる方で、作品について説明している写真です。
 どうしてこの場面が成立したかとても不思議に思います。しかし作品を制作するうえでいろいろな奇跡のようなことが繰り返されてきました。
 これはまさかの受賞で、第五回バンコクトリエンナーレ版画素描展での受賞式のときの写真です。


島 これは何年ですか?

玉分 昨年2019年です。何故彼女と出会うことができたのか、とても大事な話をこれからしたいと思います。

 これからお話することは2018年台湾国際版画ビエンナーレの受賞講演で発表させてもらった内容を二年前の感覚でお話しようと思います。二年前と今とはまったく違うので、その比較をしながら見ていただけると面白いかと思いました。

 今は《lives》というタイトルの個展なのですがこの前は《He lives》という作品を描いていました。

 これは2018年富山県黒部市美術館で開催された《Contact-交換する物語の部屋》という展覧会です。ここで中森さんとお会いしました。この展覧会のカタログで「この作品群は新たな縁になると思う」と書いたのですが、まさしく今の状況はその通りになったなと思っています。このように絵が呼び込む不思議な出会いが常にあります。

 まずこの作品には彼の物語がとても重要となります。よく見ると彼は車いすの状態で生きています。そして左側は動物と触れ合っています。これは筋ジストロフィーという病気を患っている少年のお話です。彼を通して私が多くのことを経験した中から生まれた物語でもあります。

 私は実はブラジルにも行っていて、2008年ブラジルで日本語を教えるという仕事をしていました。120年前、日本から渡った移民の子孫に日本語と日本文化を教える仕事です。120年前、中国、韓国、ドイツ、イタリア、アフリカ大陸、から多くの外国人がブラジルに渡りました。ブラジルは移民国家です。

 そのブラジルで大自然を目の当たりにしてきました。その一つを見てもらいたいと思います。ここは私が大好きな場所です。結婚するまえのお嫁さんがいます。360度砂丘があり雨季に雨が降ってエメラルドグリーンの湖が出現します。たった2.3か月の湖なのですが実はその間に魚がいます。雨季になり卵が孵化してほんの短い間だけ生きています。

島 この水自体はいずれは無くなっていくのですね。

玉分 はい、レンソイス・マラニャンセツ国立公園と言います。とても幻想的です。毎年湖の形は変わります。ここで迷子になったら戻って来ることができません。真っ白な砂漠にエメラルドグリーンの湖が広がっています。その様を作品にしようと思いました。雲や水、晴れ渡る空をこの作品の中のプールに表現しています。水、空、雲、子どもが遊ぶ姿も想像できると思います。

島 プールは見ようによっては、多義的な意味を込めたものになっているわけですね。絵の中の雲みたいな形がどこから来ているのかと思っていました。

玉分 風景を描かなくてもプールを描くだけで、その中にいろんな要素を込めることができます。少年の服にはブラジルの景色が再現されています。ここには広大な世界があります。世界感の広がりは、間違いなくこのブラジルの日々が影響しています。

 彼の左足は実はウンチを踏んでいます。ブラジルでの私が経験した一場面ですが、皆さん誰しもが経験したことがあるような気がしませんか?この強烈な感触が、生きていることを確認できる方法のひとつだと思っています。 彼の車いすには 小さな町が描かれています。これは以前私がブラジルで描いた犬の作品、この周りにも町が描かれています。このように自分が見た風景をデザインすることも私の制作には重要になってきます。 






版画に出会う


玉分 次はタイのお話をしたいと思います。タイ王国はアーティストとして生きる土台を築いた場所です。たまたま私が大学院で勉強しているときに、タイ人の留学生に誘われタイ王立美術大学で教えることになりました。2000年のことです。いろいろな学生と知り合い、いろいろな子供たちとワークショップをし、さまざまな版画技法を習得しました。この大学は世界的に活躍していた先生や学生がいました。私は版画について研究し、そして世界的な版画家になりたいと思った場所でもありました。

島 タイ語はどういうふうに習得したのでしょうか。僕はマイペンライ(大丈夫・どういたしまして)しか知らないのです。笑

玉分 これが食べたい。これが食べたくないとか。これが大好きだ。これはいくらですか、とか。生きるための最低限の言葉を覚えていきました。

沙羅の花


玉分 私の作品によく出てくるこのモチーフはタイの花で私にとっては大事な存在です。特にこの花は沙羅と言います。タイ人はブッダが生まれる時、亡くなるとき近くに咲いていたと信じられています。

 日本にもあります。違う花ですけど、沙羅双樹というのがそれです。「さら」という言葉は世界共通語です。仏教国では各国々で信じられている沙羅双樹があります。この沙羅は私にとって重要な花で私に大きな感動をもたらしました。仏教を自然から感じる初めての体験でした。

島 ピンク色の部分(花)の大きさはどれくらいなのですか。

玉分 椿よりちょっと大きい。イチジクのように見える場所は花になる予定の部分です。種の部分は別の場所にあってけっこう大きいのです。

日本に帰ってくると、あらためて日本の自然に目を向けることができるようになりました。





母の病と車いす



玉分 今からは日本のことです。この作品は15年前母が病気で倒れたあと、すぐに作りました。彼女の頭は手術後包帯で巻かれていました。私がタイ王国にいたときに倒れて、私はすぐ日本に帰って彼女のリハビリのお手伝いをしました。 一緒に絵を描いたり、足を動かしたりしていました。



島 くも膜下出血ですか。

玉分 はい。くも膜下は後遺症が残りやすくて、母は重度の障害をもつことになりました。左半身まひになりました。大きな手術を何度もして奇跡的に助かりましたが障害は想像以上に重かったです。施設で過ごすことになりました。この車いすの姿は私にとって重要になってきます。障害を持つことは生き方が変わります。彼女は最後まで生き抜くことをあきらめませんでした。

 これは現在私が勤めている支援学校です。子どもたちは重度の障害を持ち、ほとんどの子供たちが車いすでの生活を送っています。母親のお腹にいるとき障害を持ったり、産まれる時に分娩がうまくいかず後遺症をもったり、交通事故、病気など、さまざま原因で障害になります。中でも筋ジストロフィーは若くして亡くなってしまう病気です。この画像の彼は生まれつき脊髄の損傷をもっています。しかしとても明るく周りの人をとても幸せにしてくれる人です。この子の絵は二階にあります。足に装具をつけている絵です。



 車いすは私にとってとても重要なものです。母が倒れ車いす生活を11年続け、のちに骨髄異形成症候群いわゆる白血病で亡くなります。この絵の少年は筋ジストロフィーという病気のため、若くして筋力が無くなり、やがて体が動かなくなり最終的には寝たきりの状態で死を迎えることになります。普段健常者として生きている私たちは車いすに乗る子どもたちをあまり見る事がありません。何故なら特別なケアと特別な教育が必要だからです。言葉を発することができず、体を動かすことができず、彼らが生活するには、近くにいるひとのとても深い愛情と真の理解が必要だと思っています。

 ここには私の子どもがいます。子どもの存在は私が生きる上でとても大事な存在です。なぜなら普段病気の子ども達と過ごす事でこの小さな命がより大切にみえます。そして障害をもった子ども達の発達段階も、息子を通して理解できるからです。

 人はそれぞれです。生まれた時から性格が決められているような気がしますが、意外とどの子ども達も共通することも多いのです。障害を持った子どもたちは、成長過程が止まってしまうことが多いようです。この作品は左側がかつての自分。想像上の自分、夢の中の自分であり、感覚をしっかり味わっている姿を表現しています。右側は進行しつつある病気と共に生きる姿を表現しています。この少年は誰にでも起こりうるこれからの姿と言っても過言ではありません。





版画技法について



玉分 ここで版画の技法について簡単に説明したいと思います。私の版画はエッチングといいます。 銅版画です。アクアチントという技法を使っています。松脂を振りかけて芽を腐食液に何秒漬けるのかで色の濃さが変わってきます。長く漬けるほど色が黒くなっていきます。 私は5秒、10秒、20秒、45秒というように、アクアチントをして最後に20分つけて一番黒い色にし完成としています。この作品は13段階のトーンを付けています。

 ドライポイントとシン・コレ(chine collée)というのをやっています。シン・コレは二種類の紙をつかっています。ドライポインドは針で引っかく技法です。背景の茶色はもともとは白い紙にコーヒーで染めています。もうひとつの白いところは方眼紙をつかっています。よく見ると方眼紙の線があります。仕上げにドライポイントで線をつけていきます。サンドペーパーでごしごしと傷をつけるドライポイントを施しています。

 スピットバイトという技法も使っています。簡単にいうと腐食させたくない場所は防腐材で覆い、そのまま腐食液を銅版画に垂らすことで、垂らした部分が腐食されます。画面では水しぶきのようにてんてんてん、とっている部分がそうです。およそ3分でこのようなスピットバイトの腐食ができます。


 もうひとつ、私の作品で重要なのはインクです。昔書道をしていたので墨の色は幼いころから慣れ親しんでいる色です。このインクは黒色に青色のインクを混ぜています。書道は幼いころから13年間やってきたので表現方法の色としての基礎となっていて私の原点の色です。コーヒーの色と白い紙、黒と青を混ぜた墨のような3色が私の気に入っている色となります。コーヒーの色と混ざるので緑色が入ったように見えたり不思議な表現が出るので好きな色です。


島 書道は今はやっていないのですか?

玉分 書道は今はやっていません。書道をするきっかけは、習いこととして、ということでした。家は料亭でした。

島 床の間もあるような和室の家になじみがあったということですね。

玉分 はい、自分の生活環境の中に食の美があったのです。大きい広間がありお膳があり、それらが普段のものとしてありました。

私の作品の特徴は一版一色刷り。一版ですべてのことを終わらせています。


島 見た目の印象は実際には三版くらいに見えますね。



質疑応答1


質問者1 画面の中のドライポイントの部分に異世界感を感じたのですが、そこには意図というか意味がありますか。

玉分 はい、あります。版画というのはどうしても技巧的になりやすくて、カチっとした作品を作りたがる人が多いのですが、自分はそういう部分と、わざと雑な部分を混ぜることで、版画の魅力が出ると思っていて、わざと画面にドライポイントやスピットバイトを入れることをしています。

質問者2 プールに見えるところに雲があったりして、画面のなかに別の次元の場所が登場したりしています。チラシに載っている絵には片足が突っ込まれているような白い空間があり全体の中では小さいパーツだけれど空間の中で別の次元ですね。それ以外の場所は何にあたると思っていますか。

玉分 黒い丸の部分を「異界の穴」ですね、と表現をされた人がいたのです。「あなたは死の世界からこれを描いている」と言われました。自分はその言葉にドキッとしました。病気をすることによって、絵の中にこの穴が出てくるのですが、自分はこの絵をどういった立場で描いてるのかわかったような気がしました。

 あの世から見ているこの世、またはこの世からみているあの世。空間というものは勝手に作り出していたのですが、浮遊感というものがすごく影響しているように思います。今はっきり言えなくてすみません。

質問者2 コーヒー色のところはあの世でもあり、この世でもある。黄泉の国の物語の感覚という感覚でしょうか。いろんな作品に充満していますよね。

一旦休憩

「病」「浮遊感」「同視」


玉分 これまでの話は二年前の自分です。これからはこの二年間に何が起きたかという話をしたいと思います。自分の中で縁(えにし)という言葉がすごく大事な要素なのです。縁はアーティスト活動をすることで大切なものです。縁を意識し次から次へと絵をかくことによってそれにまつわる縁がまた発生します。

 お寺で去年の3月展覧会をして欲しいという話がきました。仏教にちなんだ作品を発表して欲しいと言われ依頼されたのは「チューダパンダカ」でした。しかし会場を見せてもらいお寺の蔵に行きつき見てすぐに浮かんだのは、釈迦十大弟子でした。

島 この蔵に10本の柱があったんですね。

玉分 その通りです。空間に入った時に10大弟子だと直感的に思いました。それはすでに自分が(釈迦十代弟子を描いていた)棟方志功を知っていたからだと思います。

島 これは版画なんですか?

玉分 顔彩です。

中森 柱は、構造上の理由でたまたま10本だったのですか?

玉分 はい、そうです。ここでは釈迦十代弟子の絵画のインスタレーションを考えていて、スケッチにはないのですが描かれている10人のお坊さんの瞳の中にブッダの頭が描かれています。 鑑賞者がこの蔵の中心に立つとブッダになれるというコンセプトでこの空間を作りました。そのことは誰にも話していなくて私だけが楽しんでいます。


島 全員それぞれに顔とか、衣服の色も違う。表装も違うのですね。

玉分 表装は表具屋さんにお願いしてもらいました。私が持ってきた水色のファイルを見て下さい。十大弟子についていろいろ調べています。ここに至るまで多くの経験があり、この依頼がくることになりました。もう少し過去に戻ると適切に説明できます。


島 この十大弟子の絵は寺に納められたのですか。

玉分 はい、蔵にピタッとあったのでこれはここの物だと思って奉納しました。

島 それは無償で?立派ですね。

玉分 厳密に言うと別の作品を買ってもらっています。笑

 まるでこのために作られた柱という感じですね。



玉分 話が少しさかのぼります。私には「病」と「浮遊感」と「同視」という3つのキーワードがあって、これは縁(えにし)を体験するうえで非常に大事な要素になります。2016年の出来事で、世にいう本厄の年です。41歳の時に扁桃腺がはれて緊急入院。気管切開し人口鼻をつけて声は出なくなりました。一時的に言葉を失って筆談の生活をしました。扁桃腺切除をしなければならないと言われ2時間で終わるところが7時間半かかってすごく危なかったと聞いています。脳に血栓がいかないようにカテーテルをいれて血栓ができた時にはカテーテルから薬を入れてすぐ溶かすという準備もしていたそうです。耳の奥に水が溜まり鼓膜を切開し吸引手術もしました。同時に骨に癒着した親知らずを抜きました。

島 扁桃腺とミミの奥に水がたまるのと、親知らずは別のことなのですが、それとも連動しているのですか、

玉分 連動と思われるものもあるのです。扁桃腺が大きい人は取った方がいいらしいのですが、自分は昔から耳の奥に水がたまりやすく、いろいろな事が一緒にきたようです。


玉分 体調に変調をきたし、精神科にかかることになり、「同視」の状態と言われました。「同視」というのは言葉を発することができない障障害者と同じ心境になって、その子の見た世界、聞いた世界を感じ取ってしまう事をいいます。例えて言うと精神科医が鬱病の患者と話をしているうちに、その患者の症状が医者に同化してしまって、一緒に鬱になってしまうような状態を「同視」といい、自分が子どもたちにあまりにも同一化することは危険なことだから、とりあえず、距離をとりなさいと言われたのです。

 具体的には子どもの気持ちがわかりすぎて、子ども目線で話をすると子どもの気持ちがわからない人たち(支援学校の職員など)に対して違和感を覚えます。そのことを避けようとすることによって不安症を発症。不安症というのはいわゆるパニック障害です。

 実際今日ここに30人くらいの人がいたら、自分は死にそうになってぼーっとしていると思われます。それがいわゆるパニック障害です。または不安症という風に診断されます。

 いろんな人の死、結婚、流産、長男の誕生、母の白血病、介護施設で母が虐待されて警察沙汰になったり、私生活では実家を処分し、職場での嫌がらせも始まる、家を建てたりもしました。母の月一回輸血のために自宅に帰るのですが、富山から多治見に行く途中50個ほどのトンネルがあり、それをくぐることができない。死にそうになるくらい怖くなる。その後母の死もありました。

 そういうことがあって常にふらふら、「浮遊感」が始まります。自分がそこにいるのかいないのかわからない状態で、休暇を取りたいと思い続けていました。

 「浮遊感」というのは自分が死ぬ、または死んでるかもしれないという感覚に陥ります。そんなときに作品に子どもが現れてくる。流産で流れてしまった一人目の子どもです。私は絵の中でも会うことができ非常に嬉しかったです。きっと死を覚悟していた自分は記念写真としてこれを作ったのかも知れないと思います。私は車いすに乗っています。

 様々なことが起こりながらも作品を作って来たのですが次男が誕生しました。不妊治療に2年かけて取り組み、毎回妊娠したかどうか考えることは大きなプレッシャーになります。不妊治療をしている家族を見た時同じ心境になり私の苦しみになりました。それが同視です。ただ、次男の誕生はすごく嬉しかったです。





縁に導かれて


玉分 結局私は育児休暇をとることができたので2019年1月から半年間休暇をとることを決意しました。ただしその二週間後にお寺から展覧会依頼が来てしまいます。それが2019年3月からの展覧会で、休暇を取って休みたいのに休めない。どうしても描かなければならない。体調を崩し、少しの心の休憩が必要なのにも関わらず自分の意志に反して展覧会の依頼がくることになります。

島 職場には行かなくてもよいのですね。ただ展覧会の依頼がきて、そういう意味ではぼんやり休むことはできないと。

玉分 自分の身体が自分ではないという感覚になります。自分の感覚がなくなり人を見るとその人になってしまうという体験になり、その人と同じ景色を見てしまうようになりました。そのことから十大弟子の作品を作っているときも、彼らの身体にはいり、疑似体験することになりました。

 十大弟子ははじめインド人を描こうとしましたが、見たこともないインド人を描いたとしてもリアリティがないと思い自分なりの十大弟子を描こうと思いました。三か月間文献、資料を探し、読み、紙を見つめて浮かんできた人物を描こうと思ったのです。結果的に浮かんできた10人はすべて違う顔になり、わたしなりの十大弟子が出来た気がします。

玉分  このお坊さんはルフナと言って、サンガ(僧院)に入る前、さまざまな国と貿易をしていた実業家でした。この弟子が見ていたのは間違いなく海でした。(同視によって)行く先々で多くの女性と関わりをもっていることが見えました。女性との関わりができる人はそれなりに色気があります。彼の行動が少し見えてきました。出家する人はそれなりの罪悪があるからそこに入っていくと思います。なんとなくあちこちに愛人と子供がいて姿を消したかったのかも知れません。袈裟は糞掃衣(ふんぞうえ)といって、ぼろ布を縫い合わせて体に巻き付けていました。袈裟の表現は弟子が見た景色の色にして、上部にいくこと細かな表現にし、悟りをひらいた道筋を表現してみました。

島 それは、玉分さんが作ったストーリーなのでしょうか。十人分のテキストとして残されているのですか。

玉分 私なりの同視で勝手に思っているのですが、調べたら実際浮気相手は2人いました。しかし私は2人どころではない気がします。笑 そして実際十大弟子についての文献は少なかったです。

玉分 このようにお寺の蔵が十大弟子を呼び、導かれるように私が休暇を取り、制作するようになったと思わざるを得ません。軸は表具屋さんにお願いしてたまたま3本だけ少し短くなりました。蔵の右手に壁にくっついているテーブルがあるのですがその3本の軸がテーブルの高さと、ピタッと合う長さになっているという不思議な偶然が起こってしまいます。





チュウダパンダカと応用行動分析


玉分 これは、私が依頼された「チュウダパンダカ」です。この方はお坊さんなのですが、バカボンの「レレレのおじさん」のモチーフです。お寺さんから描いて欲しいと依頼されたのはその知的障害があり物覚えの悪いお坊さんなのですが、彼は釈迦に寺の周りを掃除するようにいわれました。箒をもって、「チリをはこう」「垢をとりのぞこう」と言って、何回も掃除をするうちに悟りを開いた方です。僕は特別支援学校で18年のキャリアがあって、それで引き寄せられたと思うのです。

玉分  この1年前にはたまたま応用行動分析について研究しています。応用行動分析というのはある事象が起きたらあることをする、それが応用行動分析です。人に何かをされることによってその人はある行動をする。それは問題行動であったり良い行動であったりするのですが、たまたま研究していて、チューダパンダカが何故悟りをひらくことができたかという答えが見つかりました。一年に100の話をするとしたら、掃除をしながら3回聞くことになる。それが30年続くと90回。それだけ同じ話を聞いたら、その話を覚えることができたのではないかと。ある人に質問されたら答えることができるほど体得したとしたら、悟りをひらくことも可能だったのでは、と。

 応用行動分析、あることが起こるとあることが良い方にも向かい、悪い方にも向かう。デューダパンダカの場合、良い方に向かうためには繰り返し何回も何回も聞くことができる環境にあったということが想像できます。

島 玉分さんが支援学校に行ったきっかけは、なんだったのでしょうか。
玉分 採用試験は中学校高校で受かったのですが、中学校一人、高校一人しか採用させてくれないので、自分は県立高校席で、県立の特別支援に行きなさいと言われました。





異界の穴 と 非人称の《 lives 》


玉分《lives》とはどういうことなのか。

 私は自分ではない人が絵を描かせているという感覚に陥ります。つまり私が私を生きているのではないという感覚です。このように心境の変化が起きてきました。

 タイの友人の病。筋肉腫です。癌ですね。最初作品を作るとき、スケッチを描いた段階では左足に腫瘍があったと聞いていたので、左足がない状態を描いていました。反転するので作品としては右足が切れているようになりました。しかしこの作品ができて半年後、右足のほうが大きな腫瘍ができていておそらく右足から始まっていたと医者に言われたというのです。

 描こうと思っていたわけでもなく、紙を見つめていたら現れてきた友人を表現することでタイ王室の方と王女に会うことになっていくのです。

《lives》というのは私の中にいろいろな私がいるということです。 私ではないわたしが生きている。人間の歴史の中で色々な人の願いや身体が、私を動かしている、私は彼ら一人一人を生きている。身近な人たちの想いが宿り、その人たちに絵を描かされていると思います。その人たちがそのバックアップをしてくれていると気づきます。

玉分  2019年11月ごろ、私に異変が起きます。不安症の一つで涙が止まらず毎日泣くことになります。

 2019年12月、《つつみ・見えると見えない作品展》というグループ展をしました。ある人に「この丸い穴は何ですか」と尋ねられた私は「これは陰であり、水たまり、どちらかと言ったら穴ですね。」と言ったら、「ああ、異界の扉ですね」と言われました。

「異界とはなんですか」と聞くと「あの世ですよ」

 その言葉にドキッとしてすべてのつじつまがあい、また号泣することになります。 

 2015年から穴を書きはじめています。この正体が私には痛いほど理解できたのです。誰が異界の扉を開けていたのか、私にとって大事になってきます。今までの自分を振り返ってみると、自分が開けていたのかも知れない。父や母、死者のだれかが開けさせていたのかもしれない。私が病気になる少し前から、穴を描き、いろいろな事が起き始めます。私は少しだけあの世にいたのかも知れません。



玉分  そして日食です。2019年12月26日まさかの日食を見ることになります。まさしく異界の扉のようでした。スケッチを描き始めると動物に載った母が現れました、又ここで私は号泣します。それが何故かといったら、2015年12月26日が母の命日であることを思い出します。数字がもたらす偶然とはいえ、このようにあの世からメッセージが届くとは思いませんでした。間違いなく母が会いに来てくれたのだと思います。

 自分が自分でない自分、泣き続ける自分、パニックの自分、ずっと泣き続けながらこの作品を作りました。そして付けたタイトルは《Remember me》(私を忘れないで)、これは母の言葉ではなく私の言葉だとも思います。母も私を忘れないで欲しいと言って現れたのかなと思います。「きっとそばにいるよ」ということを数字の力と日食、もしかしたら以前から教えてくれていたのかも知れません。

玉分 私の宗派は臨済宗妙心寺派です。禅宗です。禅宗ではお盆がとても大切です。あの世で修行している死者が一日だけ動物に見立てた茄子ときゅうりに乗って帰って来ます。展示では《Remember me》の周りには十代弟子も飾っていて今まで自分が描いてきた植物もたくさん飾っています。

 多分私は死ぬまで作品を作らされるのだと思います。それが自分の運命だと思っています。今後もよろしくお願いします。これで説明は終わります。ありがとうございました。




質疑応答2



質問者3 死ぬまで作らされ続けるとおっしゃっていましたけど、誰にというわけでもなく、でしょうか。結局泣きながらつくっているということは作らされて作るという現象が起きていて、泣くことと作ることがある種のリズムになっているのですね。

 私のかつての知り合いだった人が油絵を描いていた。その方は泣くこととしゃべることと笑い続けることなど、感情が湧き出てくることが描くことと重なっていた。玉分さんの場合は作ることが辛くなるということなのですね。


玉分 作らされているという感覚なのです。

島 さっきドローイングを拝見しているときにほぼ一発で描いている。線に導かれるようにという感じですね。草間彌生さんなんかもそんな描き方をしています。

玉分 絵を描き始めたころから紙に現れてくるものを描くということをずっとやっていたら、そのうちに嫌というほど描かされることになります。

質問者3 釈迦十代弟子の袈裟は上にいくほど悟りに近く、細かくしたとおっしゃっていましたが、それは玉分さんの決まりではなくて、一番最初のお弟子さんが細かくしなさいと言ってきて、こういう風にだんだん上に行くほど悟りに行く、という風にされたのでしょうか。

玉分 はい、十代弟子はみんなそういうような袈裟を着ています。

異界の扉、「浮遊感」というキーワード、異界の扉が開いてこの世からあの世を描いているのか、あの世からこの世を描いているのか。母が現れたのはこの世から見ていると思います。

島 草間彌生なんかは描かないと死んじゃうという人ですよね。描きだすそばから、いろいろなバリエーションで一つとして同じ柄がない。あれは本当に驚きでした。まさに草間さんも導かれている気がして。草間さんは何もしないと自殺衝動がつよい。

 90歳近い年齢で大きなキャンバスに向かって。何のためらいもなく線がでてくる。彼女は死なないために制作をしていると思うのですが。

玉分 私はぼけーっとしていたい、それなのに描かされてしまう。

中森 描かされている理由はわかりますか。

玉分 病気をする前は上昇志向的なものもあり、アーティストとして成功したいという志がありましたが、今はそういったことがどうでもよくなって、描かされていることは苦痛でしかないのです。自分が自分であることはある意味楽。自分が自分でない苦痛です。

 絵を描かされているときは、あの世に足を突っ込んでいる状態。今まで亡くなった人たちのものを受け継いでいて、この世にいるときは絵を描かされているという。タイミング、数字の力、そういった心境になることが、辛さの要因になっているのかも知れません。

質問者4 十大弟子は、降りてきて描かされているような感覚なのでしょうか。

玉分 原始仏教のことを知らないで描くことは邪道だと思いましたので、最初のころは安易にインド人を描こうと。インド人を描いたところで違う、と。最初は棟方志功みたいに描けばよいと思っていたのですが、それもダメだと。

 イメージできるくらいまで文献を探して読むことで、自分に宿るではないけど、できるのかなと。文献全部まとめて、自分の中で何か描かされるような状況までもっていって一か月でワーと10枚描いてという感じでした。

 そういう出会いはまた訪れる気がします。呼び寄せるようなところがあるのかなと。

島 次は何か展示のお話はありますか?

玉分 浮世絵をテーマにした作品をつくってくれ、と言われています。富山にコレクションのある元麻布ギャラリー富山、という場所がありまして。

島 ほう、それは面白いですね。浮世絵は木版でもありますし。玉分さんのお作りになる浮世絵も楽しみです。

中森 これからの展開を楽しみにしています。本日は楽しいトークありがとうございました。お二人様、そしてご同席の皆様には心から感謝いたします。


Artist: Akimitsu Tamawake
Guest: Atsuhiko Shima

Recording : Nic van der Giesen
photos : Hiraku Ikeda, Nik van der Giesen 

7th March 2020 @Suisei-Art, Kanazawa, Japan